傍観者。
こんばんは、卯月です。
最近、歌手になろう、小説家になろうと努力をし始めて、あぁ、わたしって「傍観者」だったんだなぁと思うようになりました。
「傍観者」というのは文字通り、かたわらでただ観ているだけの人という意味。
わたしは自分の人生に対しても、そして他人の人生に対しても「傍観者」でした。
どういう事なのか、具体的に説明します。
わたしの小学生の頃からの夢は「科学者」でした。
それはクラゲ好きが転じての事。わたしは物心ついた時からのクラゲ好きだったので、将来はクラゲの研究をしてスゴイ人になるんだ!と思っていました。
ただ、ある時知ってしまいました。
クラゲの研究をするという事はすなわち、実験対象がクラゲだという事。
そして、生物の研究の場合、研究対象を解剖する可能性が非常に高いという事。
そこで、わたしの夢は崩れ去りました。
わたしはクラゲという種族を心から愛しているので、解剖なんてしたくないんです。
なので、それからは、ただぼんやりと将来の夢は「科学者?」みたいな状態がずっと続いていました。
目標がない状態。頑張る対象がない状態。
その状態がまさしく「傍観者」なのでありました。
自分自身の事についても熱くならないし、頑張っている人を見ると「あぁ、あの人頑張っちゃってるな」みたいに思ったり。
「必死に頑張る=かっこ悪い」という式を頭の中に作り上げて、頑張る事がない、頑張れるものがない自分を正当化したり。
それが当時の精一杯の生き方でした。
でも、それって余計にかっこ悪い。
今はそう思います。
それは、器の小さな人間ほど、大きな事を言いたがるのと似ています。
一生懸命頑張っている人を見下すというのは、人間として美しくない行いだったと反省しています。
そして、それと同時に、本当に何かに打ち込んでいる人は、絶対に、一生懸命頑張っている人の事を見下したりしないという事に気が付きました。
実際に自分の夢を実現させたような人って「君もやれば出来る」みたいな熱いメッセージをインタビューで言ったりするじゃないですか。
それって、取材だから綺麗事を言っている訳ではなくて、そういう考え方をする人だから、自分の夢を叶えたり出来ているのかもしれないなと思うようになりました。
「傍観者」でいるというのは、きっと安全な事です。
頑張って馬鹿にされる事もないし、失敗して笑われる事もない。
その上、本当は出来るんだという隠し球を心の奥に忍ばせておく事も出来ます。
でも多分、「傍観者」では夢は叶えられないし、「傍観者」では頑張っている人を励ましたり出来ません。
だからもう、「傍観者」でいた日々とはお別れです。
わたしは変わろうと思います。
もし、この記事を読んで、「自分も『傍観者』をやめたい」と思ってくれた方が一人でもいたら、わたしはこの記事を書いて本当によかったと思います。
最後までお読みくださってありがとうございました。
以上、卯月でした。