ちょっとした出来事。
こんにちは、卯月です。
昨日は小説の雰囲気作りに駄菓子屋さんへ偵察に行ったお話を書きました。
↓まだの方は是非
今日はその続き。
タイトルにもある通り、その駄菓子屋さんで起こったちょっとした出来事について書いてみたいと思います。
せっかく執筆のためにやった来た駄菓子屋さん。
小説のネタになりそうな面白いものはないかと、鷹の眼になって店内を物色していたところ、
ゴロゴロゴロ。。。
突然、目の前に大きなスーパーボールがいくつも転がっていきました。
(なんだなんだ!?)
何事かとあたりを見回すと、地べたに手をついている3歳くらいの男の子と、驚いた顔をしているその子のお母さんらしき女の人が立っていました。
(ああ、なるほど。)
どうやら、その男の子がスーパーボールが入ったカゴを倒してしまった模様。
お母さんが男の子に「ちゃんと拾いなさい」と注意しているのですが、男の子はまだ自分がカゴを倒したことを理解できていないらしくポカンとした様子でその場にじっとしていました。
(えっと……どうしよう。)
わたしは悩みました。
自分の目の前にスーパーボールが転がっているわけですから、拾ってあげればいいだけ。
でも、なんとなく、そういう親切ってするのにエネルギーが必要な空気が流れています。
(いや、でも、困ってるし。)
結局、わたしはそこでしゃがみ込んで男の子がボールを拾うのを手伝いました。
でも、そこにはわたし以外にも人がたくさんいたにも関わらず、ボール拾いを手伝っているのはわたしだけでした。
「ありがとうございました。」
ボールを拾い終わると、その子のお母さんはお礼を言って、店内の奥へと入っていきました。
男の子は結局お礼を言わないままお母さんについて行ってしまいました。
こういう時にどうすればいいのか、わたしはいつも悩みます。
小学校の頃の道徳の授業では、「困っている人がいたら助けてあげましょう」と言われますが、なんだか、社会の中にはそれとは反対の空気が流れているのもまた事実なような気がするのです。
例えば、電車やバスで席を譲るとき。
目の前にいるお年寄りに対して声をかけたりすることって、実際に席から立ち上がることよりも勇気のいることだと思いませんか?
学校では年齢の高い人のことをまとめて「お年寄り」と表現しますが、「お年寄り」という括りの中でも個々は別の人間なわけで、「席を譲ってもらえて嬉しいわ」と言って喜ぶ人もいれば「わたしがそんなに年寄りに見えるの!?」と言って怒りだす人もいるわけです。
そういうことを考えると、何が正解なのか分からなくなります。
教科書通りの生き方が正解なの?
ありのままが正解なの?
大人が正解なの?
子供が正解なの?
(……。)
そして、そんな風に考えていくと、わたしは「あぁ、正解なんてないんだな」という結論に行き着きます。
生き方に正解なんてなくて、でも「どんな人間になりたいのか」「どんな人生を送りたいのか」という一人ひとりの想いに対して、一つひとつの行動に「やってよかった」とか「やめとけばよかった」という、言わば「正解・不正解」に似たような意味付けがなされていくような気がするんです。
そう考えると。
わたしは男の子のボール拾いを手伝ってよかったなと思います。
別にそれはお母さんに感謝されたからどうとか、男の子にスルーされたからどうとかではなく、わたし自身が強くやさしい人間でありたいと思っているから。
そういう意味で、わたしのその時の行動は「やってよかった」に入るわけです。
最終的には、自分自身が、どっちに立っていたいか、だけです。
「ボールを拾う側」に立つか、「ボールを拾わない側」に立つか。
きっとそこにあるのは事実そのものだけ。
そこに正解なんてない。
でも、わたしはこれからも「ボールを拾う側」に立っていたいな、と。
そんなことを思った駄菓子屋さん訪問でした。
日常の中のちょっとした出来事って色々と考えさせられます。
また何かあったら記事にしますね。
最後までお読みくださってありがとうございました。
以上、卯月でした。